チゥ ペッと旧称「忠別」Chiw-pet and the old name Chūbetsu
1890年より前、この地は忠別川のアイヌ語名にちなんで「忠別」と呼ばれていました。旭川市博物館が最初に設置したアイヌ語地名表示板(2003年)は川の名を「チゥ ペッ」と記し、のちの北彩都ガーデンの表示板(2018年)は「チュㇰ ペッ」としています。川村カ子トアイヌ記念館は、今も所在地をアイヌ語で「ヤウンモシリ チウペッコタン」と記しています。[13][14]
旭川について · About Asahikawa
旭川は北海道第二の都市で、北北海道の拠点都市を名乗っています。北海道最大の盆地・上川盆地にあり、石狩川・牛朱別川・忠別川・美瑛川がここで合流します。明治の屯田兵村と軍都から発展したまちで、2026年9月1日現在の人口は309,393人です。[2][4][63][1][58]

あったかい飲みものを用意してね。ぼくのまちを5分で紹介するよ。My town in five minutes!
市の木はナナカマド。赤い実が、ぼくのマフラーとおそろいなんだ。[59]Red like my scarf!ゆっくり読んでね。ぼくはここで待ってるよ。Take your time!1890年より前、この地は忠別川のアイヌ語名にちなんで「忠別」と呼ばれていました。旭川市博物館が最初に設置したアイヌ語地名表示板(2003年)は川の名を「チゥ ペッ」と記し、のちの北彩都ガーデンの表示板(2018年)は「チュㇰ ペッ」としています。川村カ子トアイヌ記念館は、今も所在地をアイヌ語で「ヤウンモシリ チウペッコタン」と記しています。[13][14]
村が置かれる7か月前の1890年2月、『北海道毎日新聞』は屯田兵本部付の曹長・岡部方幾の談話を載せました。岡部は、忠別はアイヌ語の発音では Chuppet で、chup は「太陽」または「東」、pet は「川」を意味するので、「旭川」のような名にすれば元の意味を保ちつつ皇国を尊ぶことにもなると述べています。地名研究者の永田方正も、1891年の『北海道蝦夷語地名解』でほぼ同じ解釈を示しました。[4]
のちの研究者は、川の名を chup-pet と読むこの解釈を誤りとしました。知里真志保は chiw-pet(「波(急流)の川」)と読み、山田秀三は chuk-pet(「秋の川」)を提唱しています。[4]
市は基本的に「あさひかわ」と読んできましたが、1890年に新しい村の設置を告示した官報には「あさひがわ」と振られていました。旭川駅と中央郵便局は、1988年3月にJR北海道が駅名の読みを改めるまで「あさひがわ」を使っていて、その後、郵便局などもこれにならいました。[4]
近文(チカプニ)、神居古潭(カムィ コタン)、牛朱別川(ウシㇱ ペッ)、嵐山(チ ノミ シㇼ)なども、アイヌ語の名をもつ地名です。市は2003年度からアイヌ語と日本語を併記した表示板を設置していて、2025年12月までに42基になりました。市は神居古潭を「神の里」と訳しています。[13][15]
できごとの一部は、川村カ子トアイヌ記念館が伝えるアイヌの口承によるものです。[62]
江戸時代後期
松田市太郎や松浦武四郎が、和人として最も早い時期に大雪山系を探索しました。[4]
江戸末期〜明治初期
川村カ子トアイヌ記念館が伝える口承によると、役人が人々を石狩へ移そうとしたとき、上川の首長クチンクレは「この土地は和人の政府ではなく神々から与えられたもの」と主張し、命令は取り下げられました。[62]
チノミシリカムイノミ1877年
最初の和人定住者・鈴木亀蔵が、現在の亀吉に入りました。[4]
1902年
1月25日に−41.0℃を記録。今も気象庁の観測史上最低気温です。[10]
2004年
7月・8月、旭山動物園の入園者数が全国の動物園で最多になりました。[1]
2025年
第28回全国菓子大博覧会・北海道を開催し、17日間で延べ261,336人が来場しました。[65]
1911年(明治44年)6月29日制定。北斗星をかたどった外形が北海道を、中央の赤い太陽が北海道の中心都市・旭川を表します。[59]